発展と賑わいがそこにはあった!小樽昔ばなし3つのキーワード
建物や街並みから歴史の重みを感じる街、小樽。
あなたは、この街が刻んだ歴史をどれだけ知っていますか?
小樽を語るうえで欠かせない、港・鉄道・ニシンという3つのキーワードから、歴史を紐解いていきましょう。
港と鉄道が拓いた北海道の未来
1869年(明治2年)、それまで蝦夷地と呼ばれていた北海道に開拓使が置かれ、本格的に開拓がはじまりました。
「北海道の中心部に庁舎を置く」という計画により、札幌市街地の開拓・庁舎の建設が進められていきました。
広大な北の大地には、見渡す限りの原生林と草やぶ…。
開拓者たちは目の前に広がる未開の地に、夢と希望を抱きながら最初の一歩を踏みしめたことでしょう。
開拓のための人や物資は、海路からはるばる北海道へとやってきました。
小樽のほかにも函館や江差といった港町には多くの船が行き交い、そこから道内各地へと人や物資が輸送されました。
なかでも小樽港は札幌市まで約40kmとアクセス良好な場所にあり、連日賑わいを見せていたと考えられます。
その後、手宮から札幌まで官営幌内鉄道(のちの手宮線・函館本線)が開通します。
レールが敷かれたことによりさらに輸送スピードが加速し、ますます開拓は進んでいきました。
北海道の発展には、港と鉄道の影響が大きかったのではないでしょうか。
ニシンがもたらした浜の繁栄
ニシン御殿
ニシンという魚をご存知ですか?
春告魚(はるつげうお)とも呼ばれ、卵は数の子として食されています。
その昔、北海道の日本海沿岸には時期が来るとニシンの大群が押し寄せました。
メスのニシンが産卵し、オスのニシンが放精をすると、海の色はたちまち乳白色に変わります。
この現象を群来(くき)と呼び、昔はたびたび起きていたそうです。
浜に揚げられたニシンは食用の身欠きにしんとして加工されたり、魚油を絞り出し絞りかすを鰊粕として加工し、肥料として利用されていました。
大漁の浜は活気づき、財を成した網元たちは鰊(にしん)御殿と呼ばれる立派な家屋を競うように建てました。
ニシン漁のため本州から出稼ぎ労働者も多く集ったという記録もあり、あの「ソーラン節」などの鰊場作業唄も生まれたそうです。
この頃の小樽の海沿いは、相当な賑わいがあったことでしょう。
残念ながら戦後あたりからニシンの漁獲量が減っていき、衰退の一途を辿りました。
しかし、文化財や商業施設として鰊御殿が復元されたり、ソーラン節は有名な歌手がカバーしたり、YOSAKOIソーランの楽曲としてアレンジされたりと、今もなお歌い継がれています。
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