東のそば 西のうどんと言われる由縁を知っていますか?
そばとうどんは、どちらも日本で古くから愛されている庶民派麺類です。
しかし、関東と関西を行き来したことがある人であれば、何となく感じたことがあるのではないでしょうか?「東にはそば屋が多く、西にはうどん屋が多い」ということを。
「東のそば、西のうどん」とも言われるその理由について、調べてみました。
そば、うどんの発祥の地は信州ではなく福岡県博多!?
そばやうどんの起源については諸説ありますが、「そばの発祥元といえば信州」と考えている方も多いのではないでしょうか。ところが、調べてみると、福岡県博多にある承天寺であるという説も有力なんです。
承天寺の開祖となった僧が中国から製粉技術を持ち帰ったと言われており、寺の境内にはそば・うどん発祥の地である旨の石碑も建っています。
承天寺が開かれたのは鎌倉時代ですが、現代のような形状のそば・うどんとなって庶民の間に広がったのは江戸時代です。江戸初期には、うどん・そばは関東・関西ともに同程度の人気だったそうですが、中期になる頃には関東はそば、関西はうどんという勢力図に変化していったと言われています。
信州か博多か。トレビアとして知っていると面白いかもしれませんね。
では、スタートは同じでありながら、なぜ東西で分かれてしまったのでしょうか?
そば文化とうどん文化を分けたのは、気候と土壌?
「東のそば 西のうどん」の原因として考えられるのは、気候と土壌です。
そばと小麦は、生育に適した環境が異なります。
そばは強い植物で、土地の痩せた山間部でも育てることが可能です。むしろ暖かい地域よりも、寒暖の差が激しい地域の方が質の良い蕎麦粉ができるとも言われています。
対して小麦は、暖かい気候と水捌けが良く豊かな土地に適した作物です。日照環境が悪い地域や、寒い気候には適しません。
また、関東と関西では、採れる野菜やその質も異なっています。筋っぽい関東野菜には蕎麦粉の香りが豊かなそばを、柔らかな関西野菜には淡白なうどんを合わせたという説もあるようです。
せっかちで見栄っ張りの江戸っ子にマッチしたそば
「東のそば 西のうどん」が定着したのは、江戸っ子がうどんよりそばを意識的に選んだことが大きく影響しています。
いわゆる当時の「江戸っ子」は、せっかちで威勢が良く、見栄っ張りで意地っ張りとされていました。彼らは、江戸生まれの江戸育ちであることにプライドを持ち、誇りを持って自らを「江戸っ子」と呼んだのです。
したがって、さっと茹でて食べることができ、そばつゆも短時間で作ることができるそばを好み、時には「粋」と称したと言われています。
また、関西でうどんが好まれたことに対抗し、「あちらがうどんなら、こちらはそば」とそば文化を発展させていったという説もあります。
おわりに
いかかでしたでしょうか?東と西ではこれだけでなく、「つゆ」の違いもありますよね!
もあわせて読んで頂けると、そばに対する理解が深まると思いますよ!
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